Fairy dictionary

妖 精 事 典

2011/8/2

「妖精事典」というのがある。
本当にいるのかどうか、その存在さえ怪しまれているというのに、 「事典」まであるとは・・。
驚いていると、本屋に在庫が1冊あるという。
「エーッ!こんな本、置いてるのー!」
と思いながら急いで買いに行った・・。
驚くべきは「事典」か、「本屋」か、それとも「私」か?                 


Change

変 化

2011/8/3

最近、外を歩いていると自然が変化している事に気づく。
緑の葉がオーラを放ち、
花はまるで「生きた宝石」のように輝いている。
海は静かに色を変えている。
8月になっても以前のような強い青に染まらない。
動物達も生きる空間をずらしている。
何かが変わっている。
何が・・?
わからない・・
私たち人間も自然にあわせて変わっていけるのだろうか・・。                     


Daughte

2011/8/4

私と夫は尺取り虫のような人間だ。
1歩1歩、前に進むだけの人生だ。
悪い事をすれば、 「ごめんなさい」と謝る、
それしか思い浮かばない。
娘は違う。
悪い事をしているのに、決して謝らない。
謝らないどころか、なんとかのがれようと頭をめぐらせる。
真っすぐな思考しかない私に、
フェイントをかけるように右に焦点をずらそうとする。
ウッと思いながらも、そうくるか、とばかり右側に立ちはだかると、
今度はその焦点を左にずらして挑んでくる、 といった具合だ。
まるで、木の枝が広がるように思考を広げ葉を茂らせる。
この子はネゴシエイターになれる、と私は時々思う。
私と夫にはとてもできない芸当だ。
私は実直さに欠ける娘が嫌いだった。
きっとみんなからも嫌われるに違いないと思っていたのに、
私より友達が多かった。
娘は木もれ日がきらめくように楽しい時間を過ごしている。
尺取り虫の私や夫とは違う人生だ。
最近、自然の造形にはすべて必然性があり、
それは美しいものだなと感じる事が度々ある。
木の枝のように広がる娘の思考。
実直さに欠けると私が感じていた思考も、
自然界では、理にかなったものなのかもしれない。
そして、尺取り虫のように真っすぐな思考なんてものは、
考えようによっては何万年も同じ人生しか送れない、
つまらない思考なのかもしれない。
かわいかった娘は成長し、だんだんまぶしくなってきた。  
                    


Day of the month

昼の月

2011/8/10

昔、空を見るのが好きだった。
晴天の、雲ひとつない青い空を見るのが好きだった。
空の青さは捉えどころがなくて、目が焦点を求めてさまよった。
「青」がわからなかった・・。
最近、久しぶりに晴天の空を見た。
雲ひとつない、まさに晴天。
空の青は・・
昔ながらに捉えどころがない・・
変わってないなと思った。
雲は変わっている・・
前にも書いたが、最近いろいろな自然が変化している。
それなのに「空」は変わっていない・・。
不思議な気がした。
これだけ色々な事が変わっている中で、何故空だけ変わらないのだろう・・
あるいは変わっているのに、私が気づかないだけなんだろうか・・
空が変わっていない事に、
懐かしさと同時に、押しつぶされそうな気持ちに襲われた。
青い空に、儚(はかな)い月が浮かんでいた。


Blueberry Tower

ブルーベリータワー

2011/8/11

うちの娘は、トーストによくブルーベリージャムをぬって食べている。
うちのブルーベリージャムは100パーセントフルーツとかいうもので、
ブルーベリーの丸い粒がそのまま入っている。
それがトーストにぬる時ごろごろしてちょっと邪魔な感じがする。
娘はそのブルーベリーの丸い粒を、いつもトーストの真ん中に集めて食べている。
その集めたブルーベリーの粒が、
私には昆虫の「フン」にしか見えない。
よく公園の草むらなどで、小さな丸い土の塊が5、6個集まったような、
昆虫のフンのような物を見かけるのだが、
私にはそれがどうしても土ではなく
昆虫のフンのように思えて避けて通ってしまう。
トーストの上のブルーベリーの集まりがその「フン」と同じように見えて、
私にはとても食べる気がしないのだが、
昆虫嫌いの娘がそれをいつも平気で食べているのが不思議だった。
ある日、悪いなと思いながら娘に聞いてみた。
「ねぇ、そのブルーベリー、昆虫のフンに似てない?」
すると 「お母さん、フンじゃなくて、タワーだよ!」
「フン」 じゃなくて 「タワー」 なんだ・・
ブルーベリータワー・・
娘は何事もなかったかのようにトーストを食べていた。


Spiritual Tower

スピリチュアル

2011/8/25

私は「クリスタルエンジェル八子」
と、いかにもスピリチュアルな名前を掲 げているが、 スピリチュアルとはほど遠い人間だった。
こういう方向に流れはじめたのは、10年ほど前だ。
最初、友人に勧められてオーラ写真というのを撮った。 その時、お店にはクリスタルやら何やら、訳のわからない物がたくさんあっ て、
「こういうのを買うようになるとおしまいだな・・」と思っていた。
それから7年後、私はとうとうクリスタルを買う事になった。
その時は、「まあ、仕方ない・・」と思った。
こういう方向に流れてくると、クリスタルの偉大さが自然とわかってくるの で、
「まあ、これはしょうがないんだ」
と自分でも思った。
その時でも、チャクラのシンボルが描かれたタペストリーを見て
「こういう のを買うようになったらおしまいだな・・」と思っていた。
そして3年後、そのタペストリーを買う時が来た。
買う時も抵抗したが、買った後もなかなか家に飾る事ができなかった。
「こういうのは、何の意味もないんだから、飾っても飾らなくても同じなん だよ」と自分に言い聞かせて、買ったままの袋に入れて放ったらかしていた。
すると、部屋の掃除をする時、必ずその袋からタペストリーが顔を出す。
「無視、無視」
放っておいたが、タペストリーに負けた。
ダイヤモンドが埃にまみれて床に落ちていても
ダイヤモンドの輝きを失わな いように、タペストリーは、私が放っておいて床に置きっぱなしにしても、そ の輝きが全く変わらなかった。
ダイヤモンドにとって宝石箱が相応しいように、タペストリーは壁に飾られ るのが相応しいのだと私は感じた。
床に置かれたタペストリーも壁に飾ったタペストリーも全く同じだ。
本物というのは、どこにいても価値を失う事がないんだなと思った。
こうして私はとうとう「おしまいな人間」になってしまったというわけだ。
「おしまい」まできてみると、意外にもこれまでと違う景色が広がっていて、 まだ先がある・・。
おしまい、の先には何があるんだろう・・


Diving

ダイビング

2011/8/26

ダイビングに行ってきた。
6年前に立てた新年の目標だ。
6年経って、やっとこの夏行く事ができた。
6年も実行できなかったのに、行く事になったきっかけはちょっとした事だった。
私はこれまで、オレンジ色と黄色が好きな色だったが、何故か先月から、「青」 にこだわり始めている。「青」というより「紺」だろうか。
紺色なんて、これまで好きだと思った事も興味をもった事もない、私にとっ ては
「何でもない色」だった。
ところが先月から、何故か急に「紺色」にシフトした。
自分でも訳がわからない。
パソコンの壁紙も「紺色」画像に変え、お店に行っても、「青」系統の椅子に 座ろうとする。
???
自分の中で何が起こっているのだ?
「紺色」というのは、第6チャクラの色であり、第3の目に関わる色だ。
私は、自分の第3の目に何か変化が起きているのかな?と思った。
そしてきたのが「ダイビング」だ。
青い海に潜り、自分の体全体を「青・紺」の色で満たしに行かなくては、 という思いに捕われる。
こういう訳のわからない時は、自分ではそう強く思っているわけでもないのに、 それが完了するまでその思いに支配されたようになる。
こういう時はさっさとやって終わってしまったほうがいいので、私は早速ダイ ビングに行く事にした。
それも「青の洞窟」と言われるところだ。
私は幾ばくかのお金を払い、日程を調整して
「青の洞窟」の所まで来たのに、 いざ海に顔をつけると溺れそうな恐怖に襲われ、インストラクターに「もう帰 る」とダダをこね、困らせた。
若いインストラクターは
「せっかくここまで来て、もったいない」
と私を励まし励まし、5分ほどかけて私はやっと潜り始め る事ができた。
「青の洞窟」は本当に青く、熱帯魚は美しかった。 「紺」の世界も美しいなと最近は感じながら暮らしている。 そして私の第3の目は・・ やっぱり閉じたままだ・・


Dynamic meditation

動 瞑 想

2012/3/7

私は、毎日瞑想をするようにしている。
実際はできない日のほうが多いかもしれない。
ただ時間があれば瞑想をするようにしている。
苦手な家事より、 瞑想を優先しているようなところもあり、家の中はグダグダだったりする。
冬場、シンクにたまった食器を見て子供が
「お母さんは、お茶碗洗うのが嫌いなの?」
と聞いてくる始末だ。
一応「大好きだよ」と答えている。
先日、スピリチュアルのセミナーに参加した。
その講師のセミナーに参加すると、不思議と心が穏やかになり、家庭が平和になる。
家で一番怒りっぽい私の心が穏やかになるので、自然に我が家は平和になるのだ。
4日間のセミナーの最後の日に、その講師から各受講生にメッセージがあるという。
それぞれの受講生に今必要な事を伝えたり、あるいは質問があればそれに答えてく れるという。
私は、特別に聞きたいと思う事もなかった。
小さなハプニングは色々あるが、 私はまあ、平穏な日々を過ごしている。
何を聞こうかと迷ったあげく、私がスピリチュアルな行いの一環として行っている 瞑想以外に、何かやったほうがいい事があれば教えて欲しいと聞いてみた。
すると、
「掃除をして下さい」
という答えが返ってきた。
ガ〜〜ン という感じだった。
その講師は掃除の事を「動瞑想」と表現した。
「動瞑想か・・」 私は正直、1本取られた気分だった。
たしかに我が家は散らかっている。
家事の苦手な私は、いつか片付けようと思いつつ、 テレビを見たりしているのだ。
スピリチュアルと言っても、やはり人間は足下からだ な、そう思った。
いつも瞑想の時間を確保するのに苦労していたが、家事が動瞑想なら苦労はいらない。
座って瞑想する時間がないから
「今日は動瞑想で」、という事で、最近はもっぱら 動瞑想中心だ。
もう少し我が家が綺麗になってきたら、又座る瞑想も始めようと思っ ている。


English conversation

英 会 話

2012/11/14

先日、スピリチュアルの世界では有名なある方に質問ができるという機会を頂いた。
質問は何でもいい。
それに対してその方が答えてくれるという事だ。
10名ほどのグループでその会場に行った。
私は特に質問したい事もなかったのだが、グループで行くという事になっていたため、一緒に参加した。
私は考えに考えたあげく、もう20年近くも続けている英会話が、全く上達しない事 について聞いてみる事にした。
 私は海外旅行に興味があり、海外旅行で困らないように英会話を習得したい という思いがある。
そのためにもう20年ほど前から週に1度英会話教室に通 っているのだが、全く上達しない。
家庭学習をしないので、自分でももっと勉 強しないといけないんだろうなぁ、くらいに思っていた。
この質問をしても
「もっと家で勉強しなさい」
と言われるのかなぁと思いつつ、それ以外に質問した い事も思いつかないので、その事について聞いてみた。
 その方の答えは、
"言葉というのは文化と結びついているので、
もっと英語の持つ文化を理解しなさい"
というような内容だった。
私は、言葉を頭だけで覚えようとするのではなく、体で覚えなさい位に理解し、もっと勉強しなさいと 言われなかった事にホッとしていた。
 そして家に帰ってからこの時のやり取りを思い返してみた。
 そういえばその方は、何故英語を話したいのか、と私に聞いていた。
私は、海外旅行の時困らないようにしたいと答えた。
私は初歩的な会話しか話せないので電車に乗るのさえ不安だ。
その方は、初歩的な会話ができれば充分じゃな いかと言った。
私はもっと話せるようになって安心して旅行ができるようにな りたいと言った。
 そういうやり取りを思い返す中で、私は自分が英会話を習得したいという気 持ちは、旅行を楽しみたいとか英語が好きというようなプラスの動機ではなく、 海外旅行の時英語がわからないと困るという
「恐れ」が動機だという事に気が ついた。
 外国語を習得するのに一番いいのは「恋愛」だという話はよく聞く。
確かに「愛」は最高の動機だと思う。
一方「恐れ」は守りであり、自分の中に 何も入れる事はできないような気がした。
 英会話を習い始めてから20年、今までそういう恐れの気持ちが自分の動機 になっているという事に全く気がつかなかった。
そして、20年も英会話を習 いながらそれが全く上達しない訳もわかったような気がした。
私が本当に必要としていたのは、
「英語を学ぶ事」ではなく「身を守る事」だったのだ。
それは、ごくありふれた動機だとは思う。
ただ、もっと多くの人と会話したいとか自分 の世界を広げたい、というプラスの気持ちがあれば、英語はもっとスムーズに 私の中に入っていたのかな、という気がした。
 この20年、私は何を学んでいたのかな、という思いと同時に、この事に気 づくためには20年という年月が必要だったのかもしれない、というような不 思議な感じがした。
 まあ、そういう事に気づいたからといって、英会話がすぐに上達するわけで もないが、せめて後20年後には今より上手になっている事を願いたいものだ。    


Kabir

カビール

2012/12/14

「魂の科学」という本の中に、カビールという機織りの話が出てくる。
どこの人とも実在したとも書かれていないが、話の流れからすると古い時代の インド人のような感じがする。
そのカビールという人は光明を得たとされ、つまり悟りの境地に至ったという 事だと思うが、その後も機織りを続けたと書かれている。
そしてそのカビールの織った織物は、あまり出来がよくなかったという。
たくさんの間違いがあり、 たくさんのミスを犯していたというのだ。
それでも多くの人がカビールの織物 を求めたと書かれている。
現代に生きている私にはその感覚が理解できなかった。
ミスや間違いの多い織物を喜んで手にできるだろうか・・?
その時私はフと、1年ほど前に聞いたある人間国宝の方の演奏を思い出した。
その日私は、古典舞踊が無料で鑑賞できるという事で、あるイベントに行って みた。
すると、舞踊の合間に古典音楽の人間国宝の方の演奏があるという。
正直私は嫌だなぁと思った。
古典音楽には関心もなかったし、聞いても意味がわからない。
おまけに、人間国宝というと高齢の方が多いので、今現在どれほどの演奏がで きるのかわからないよなぁ、とか思った。
でも、古典音楽の素養もないような私が、人間国宝の方の演奏を聞くなんて、 こういう機会でもなければ一生ないよなぁとか思い、楽しもうと思い直した。
そしていよいよ演奏の時になり、その人間国宝の方が舞台に出て来た。
それも弟子とおぼしき方に手を支えられて出て来た。
「自分1人で歩く事も難しいのに演奏するのか・・・」
私の気持ちはさらにしぼんだ・・
演奏が始まった・・・
予想通り、声も枯れている。
でもまあ、今日は楽しんで帰ろうと思い静かに聞いていた。
すると、演奏が始まってしばらくすると、フッと自分がずっと古い時代にタイ ムスリップしたような感覚に包まれた。
ちょうど今演奏されている音楽が生ま れた頃とでもいうのだろうか・・・。
古い町並み、馬が行き来するような道、 粗末な身なりで忙しく働いている人々、その時代の風景、暮らしが感じられる ような感覚だった。
そしてその演奏の間、私はその古い時代にいるような、 そんな時間を体験した。
驚いた。
その演奏は、上手いとか下手、そういうのを超えた領域のように思えた。
仙人、とでもいうのだろうか、上手いとか下手、そういう常識を超えた音の 世界がそこには広がっているような気がした。
これが人間国宝というものか・・
その凄さに感じ入り、その世界を堪能させて頂いた。
そして演奏が終わり、その人間国宝の方が挨拶をなさった。
自分はもう高齢で声も出ず、お聞き苦しい演奏だった事と思います。
ただ、主催者の方が、(人間国宝の方の演奏が)1曲というわけにはいかないとおっ しゃっているので、お聞き苦しいとは思いますが、あと一曲演奏させて頂きま す、というような内容だった。
さらに驚いた。
自分でも声が出ないという事を承知している。
それでも主催者の要望に応えて あと一曲披露するという。
あるがままの境地、というのだろうか・・
自分を良く見せようとか、認めさせようとか、人間国宝としてのプライド、 そういう気配が全くない。
やはり私のような者からみれば「仙人」そんな感じがした。
そしてそういう方だからこそあのような自由な演奏ができたんだなと、改めて そういう方の演奏を聞けた事の大きさを知る思いがした。
その後私は、その方のCDを買った。
そして機会があれば演奏会を聞きに行こう と思っているが、その後体調を崩されて未だ演奏会は開かれていない。
ご高齢ではあるが、体調を回復されて、又あの「仙人」の演奏を聞かせて頂け ればと思っている。
そこで「カビール」だ。
ミスも間違いも多い織物、だけど多くの人が求めた織物。
良い、悪いを超えた世界。
そういうものは、古代にも現代にもあるのかもしれない。
ただそういうものを体験する時間は、現代では少なくなっているのかもしれ ない。


Saran wrap

サランラップ

2015/8/7

 20代の頃、私はサランラップがきれいに切れなかった。
ペチャッとひっついたり、まっすぐ切れなかったりして、皿一枚まともに 覆えなかったものだ。
同年代の女子は、ピッと手際良く切って、皿もきれいに覆っている。
私が「上手く切れないのよねぇ」というと、
「こうやるのよ」
と切り方を見せてくれるのだが、それを真似ても上手くは切れなかった。
 あれから年月が過ぎ、 いつの間にか私も人並みにサランラップが切れるようになった。
若い子がサランラップを上手く切れずにいると、
「こうやるのよ」
と見せたりしている。
こんな些細な事も、続けていくといつの間にか上手くなるんだなと 不思議に思ったりする。
家事も私の苦手分野だ。
特に苦手なのは料理だ。
苦手なのに、毎日3回、休みなしだ。
 中学の時、ミートソーススパゲティを作るのに5時間かかった事もある。
要領が悪い上に好きでもないから、料理には本当に苦労している。
仕事が忙しい時は、ここぞとばかりに「外食」に逃げたりする。
「一休み」という感じだ。
けれどそう休んでばかりもいられない。
料理の上手な人は「作り置き」なんていう、私からすると「すご技」を披露する。
料理の苦手な私の頭の中に、明日という文字はない。
今日この一食、何を作るかだけで頭が一杯だ。
そんな「食」のその日暮らしをしながら、私も年を重ねてきた。
そして最近自分が「明日」のメニューまで頭に浮かぶようになってきたような気がする。
これは多くの主婦にとってはあたり前の事だと思うが、私においては 「どうしちゃったの」という感じなのだ。
サランラップにしても料理にしても、人並みにできなかった事が、 続けているうち何とか困らないまでにはなってきたような気がする。
困ってきた時間の積み重ねが、困らない自分を作ってきたんだなぁと 不思議な感じがする。
苦手でも嫌でも「続ける」という事には、 やっぱり凄い力があるんだなぁと、些細な事で感じ入ったりしている。
興味のある仕事でも、やめたいなぁ、向いてないのかなぁとか考えたりするけど、 この苦しい時間が自分を成長させていくんだろうか。